【閲覧注意】
本作は史実を下敷きにした歴史フィクションです。物語の展開上、人物の密やかな関係性や官能的な心理描写、ならびに過酷な運命を想起させる表現が含まれます。18歳未満の方、刺激の強い表現を好まれない方は、閲覧をお控えください。
【史実 ARCHIVE】
年号: 1714年(正徳4年)
人物: 江島 (Ejima)、生島新五郎 (Ikushima Shingorō)、月光院 (Gekkō-in)、天英院 (Ten'ei-in)、秋元但馬守 (Akimoto Tajima-no-kami)
1714年(正徳4年)、大奥の筆頭年寄である江島が、前将軍の法要の帰路に立ち寄った歌舞伎芝居小屋「山村座」にて、人気役者・生島新五郎と遊興に及び、門限に遅れたことに端を発する歴史的疑獄事件。これは単なる規律違反にとどまらず、当時の大奥における「月光院派(7代将軍生母)」と「天英院派(6代将軍正室)」の権力闘争の引き金となり、関係者1,300名以上が処罰される大粛清へと発展した。
江戸城、大奥。そこは千畳敷の迷宮であり、女たちの吐息と嫉妬が重厚な香となって澱む、黄金の鳥籠であった。筆頭年寄・江島にとって、その空間は権力の頂点であると同時に、永遠に乾くことのない牢獄でもあった。絹擦れの音だけが支配する静寂の中で、彼女の肌は冷たい美貌の下、焦がれるような熱を秘めていた。一歩外へ出れば、そこには極彩色の俗世がある。役者の汗、三味線の音色、そして男の匂い。運命の歯車は、墓参という名の外出をきっかけに、狂おしいほどの速さで回転を始める。それは破滅への扉が開く音ではなく、禁断の果実が熟れ落ちる、甘く湿った音に似ていた。
山村座の桟敷席。そこは、大奥の静寂とは対極にある、熱狂と情欲の坩堝(るつぼ)であった。提灯の明かりが揺れ、人々の熱気が湯気のように立ち上る。江島はその混沌の中心に座し、扇子で口元を隠しながら、舞台を見下ろしていた。
舞台上、花道から現れた一人の男。生島新五郎。稀代の人気役者である彼は、流し目を客席へ送るだけで、女たちの理性を根こそぎ奪い去ると噂されていた。彼が動くたび、役の衣装が舞い、汗が飛び散る。その一滴一滴が、まるで宝石のように照明を弾いた。
江島の呼吸が浅くなる。生島が舞台中央で見得を切った瞬間、彼の視線が真っ直ぐに、御簾の奥にいる江島を射抜いた――そう感じた。錯覚かもしれない。だが、その視線には物理的な重みがあった。冷え切っていた江島の腹の底に、火種が落ちた。
(……あの方の腕は、どれほど熱いのだろうか)
思考は、許されない領域へと滑り落ちていく。芝居が終わり、茶屋「山村」の奥座敷へ招かれた時、江島の心臓は早鐘を打っていた。襖一枚を隔てた向こう側に、彼がいる。化粧を落とし、素顔に戻った男の匂い。
襖が開く。そこには、舞台上の華やかさとは違う、獣のような静けさを纏った生島新五郎が控えていた。平伏する彼の項(うなじ)から立ち上る湯気。濡れた髪が額に張り付いている。江島は言葉を失った。格式張った挨拶など、この湿度の高い空間では無意味だった。
「……ようこそお越しくださいました、江島様」
新五郎の声は低く、そして驚くほど柔らかかった。それは鼓膜ではなく、直接肌を撫でられたかのような感覚をもたらした。二人の間に置かれた酒器。注がれる酒の音が、あまりにも卑猥に響く。視線が絡み合う。言葉はなくとも、互いの瞳孔が開いていくのがわかる。それは、権力者と役者という身分を超え、ただの男と女が、互いの「雄」と「雌」を嗅ぎ分ける瞬間だった。

宴は終わらない。いや、終わらせることができなかった。三味線の音が途切れ、周囲の取り巻きたちが一人、また一人と席を外すよう気遣いを見せる中、部屋の空気は蜜のように粘度を増していた。外では春の夕暮れが迫り、江戸城の門限である「七つ(午後四時)」が刻一刻と近づいている。理性が警告を発するが、本能がそれをねじ伏せる。
江島は、新五郎が差し出した盃を受け取る。指先が触れた。ほんの一瞬、稲妻のような痺れが走る。新五郎の手は大きく、節くれ立ち、そして熱かった。その熱が、冷え切った大奥での日々を焼き尽くしていくようだった。
「……帰りたく、ありませぬか」
新五郎がポツリと漏らす。それは問いかけではなく、共犯への誘いであった。彼の瞳には、これから訪れる破滅の予感が映っている。役者である彼には分かっていたのだ。この高貴な女性を留め置くことが、死に等しい罪であることを。それでも尚、彼はその深淵へ飛び込むことを選んだ。
二人の距離が縮まる。帯が擦れる音。伽羅(きゃら)の高貴な香りと、男の脂粉の匂いが混じり合い、目眩を覚えるような芳香となる。直接的な交わりなど必要なかった。ただ隣に座り、衣を重ね、同じ空気を吸うこと。それだけで、彼らは精神の交合を果たしていた。
「時が……止まればよいのに」
江島の唇から漏れた言葉は、ため息と共に消えた。外では遠くの鐘の音が響き始めている。それは城門が閉ざされる合図。しかし、彼女は動かなかった。動けなかったのではない、動かなかったのだ。この刹那の快楽のためなら、全てを捨てても構わないという、凄絶な覚悟がそこにはあった。
新五郎の手が、躊躇いながらも江島の打掛の裾に触れる。その指先の震えが、愛おしさと恐怖を同時に伝えてくる。二人は屏風の陰で、世界の終わりを待つ恋人のように、互いの体温を貪るように感じ続けていた。戻るべき場所への橋は、既に燃え落ちていた。

宴の終わりは、唐突かつ無慈悲に訪れた。門限を過ぎてからの帰城。閉ざされた平川門の前で、江島は籠の中でただ一点を見つめていた。開門を叫ぶ家来たちの声が、遠い世界のことのように聞こえる。彼女の身体には、まだ新五郎の体温と、あの部屋の湿った空気が纏わりついていた。それは消えることのない罪の刻印。
幕府の評定所による糾問は、拷問にも似た屈辱であった。肉体的な痛みではない。彼女の秘めたる想い、あの夜の情景、視線の交錯、その全てを白日の下に晒し、言葉という刃物で切り刻む精神的な凌辱である。
「役者ごときと通じたか」
役人の冷徹な問いに、江島は表情を崩さなかった。彼女は知っていた。これは単なる風紀の問題ではない。自分を贄(にえ)にして、主である月光院を追い落とそうとする政治の刃であることを。だが、彼女の胸の奥にある「真実」は、誰にも汚させない。
判決は過酷を極めた。江島は死罪の後、高遠(たかとお)への流罪に減刑。生島新五郎は三宅島への遠島。そして、関係者千数百人の処罰。一つの恋が、一つの巨大な組織を内側から食い破ったのだ。
江戸を去る日、江島は檻のような粗末な輿に乗せられた。見物人たちの蔑みの目、罵声。しかし、彼女の耳にはそれらは届かない。彼女の記憶の中では、まだあの山村座の灯りが揺れ、新五郎の低い声が響いている。
(……悔いはありませぬ)
彼女は心の中で呟く。絢爛豪華な大奥という鳥籠で、人形のように朽ち果てるよりも、たった一夜、業火に焼かれるような「生」を実感できたのだから。彼女の視線の先には、新五郎が流される南の海が見えるようだった。二度と会えぬ運命。しかし、その絶望こそが、二人の愛を永遠の神話へと昇華させる最後の儀式であった。
信州高遠、深い山々に囲まれた幽閉の屋敷。江島はそこで二十七年の余生を送った。朝夕の読経、そして縫い物。かつての栄華は見る影もない質素な日々。しかし、月が冴え渡る夜、彼女はいつも南の空を見上げていたという。冷たい風の中に、微かに潮の香りを探して。
壁に映る自分の影法師に、彼女はかつて愛した男の幻影を重ねる。肉体は遠く引き裂かれ、二度と触れ合うことはない。だが、その魂の奥底には、あの夜の「禁断の夢幻」が、誰にも奪えない宝玉のように輝き続けていた。それは、権力も歴史も消し去ることのできない、一人の女の凄絶な勝利の記憶であった。
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