12年越しの復讐 - 法が禁じた仇討ちを貫いた男|臼井六郎 最後の仇討ち事件
1880年12月17日、午後。
東京・京橋警察署に、血まみれの短刀を持った青年が現れた。[1]
彼の手には、まだ温かい血が滴る脇差。
濡れた着物からは、鮮血が滴り落ちていた。
「今、一瀬直久を討ち果たしました。
どうか、私を逮捕してください」
警察官たちは固まった。
この青年は、なぜ自ら殺人を告白したのか?
そして、殺された一瀬直久とは何者なのか?
その答えを知るには、12年前に遡らなければならない。
これは、日本最後の「仇討ち」と呼ばれる、ある青年の復讐物語である。[2]
━━━ 12年前、1868年5月23日 ━━━
第一章: 深夜に起きた惨劇
慶応四年(1868年)5月23日、深夜。[3]
筑前国秋月藩(現・福岡県朝倉市)。
幕末の動乱期、この小さな藩は「尊王攘夷派」と「開明派」に分裂していた。
臼井亘理(わたり)は、藩の家老として開明派を率いていた。[4]
西洋の技術を学び、藩を近代化しようとする、進歩的な武士だった。
しかし、過激な尊王攘夷派の武装集団「干城隊(かんじょうたい)」は、彼を「国賊」と見なしていた。[5]
📜 隠された真実①: 権力闘争の裏側
実は、亘理を快く思わない守旧派の家老・吉田悟助が、藩主に対して彼を悪しざまに讒言(ざんげん)していた。
「亘理は西洋かぶれで、藩を売り渡そうとしている」と。
嫉妬、派閥争い、権力闘争——すべてが絡み合い、一人の有能な人材を追い詰めていく。
この暗殺は、単なる思想対立ではなく、藩の首脳部が仕組んだ政治的粛清だったという説もある。
そして、5月23日の深夜。
運命の歯車が、残酷に回り始める。
深夜、臼井邸に武装した集団が押し入った。
一瀬直久、萩谷伝之進ら干城隊のメンバーたち、十数名だ。
彼らは問答無用で、就寝中の臼井亘理を斬殺。
妻・清子も、逃げることができず、容赦なく殺害された。
さらに、3歳の妹・つゆも負傷した。
唯一無事だったのは、別の部屋で祖父と寝ていた11歳の長男・六郎だけだった。
💭 あなたならどうする?
11歳で両親を失い、妹が負傷した少年。彼の心に何が残ったのか?
翌朝、六郎が見たのは——
首のない父の遺体。
肩から胸にかけて大きく切り裂かれた体。
ズタズタに切り裂かれ、髪の毛に絡んだ血肉が襖や廊下に飛び散った母の姿。
縁側で見つけた、血濡れた骨片と長い髪。
この日、少年の心に「復讐」という二文字が、深く刻まれた。
「骨髄二徹シ切歯憤怒二堪ヘズ必ズ復讐スベキ」
しかし、彼が知らなかったのは、さらに残酷な現実が待っていることだった...
第二章: 正義なき裁き
事件後、親族たちは翌日に藩庁に事件を届け出た。
証拠も証言も揃っていた。
しかし——。
家老・吉田悟助の返答は、冷酷だった。
「自業自得だ」
そして、持ち去られた父の首については、こう言い放った。
「干城隊の屯所の庭に捨ててあるから、自分で取りに行け」
その後、首は臼井邸の庭に投げ入れられた。
7月8日、藩の正式な裁定が下された。[6]
干城隊は「国家のため奸邪を除く赤心より出候事」「忠誠の士」として無罪。
臼井亘理に対しては、こう記された。
「自分の才力を自慢し、国を思う気持ちが薄い。その態度が今回の災いを招いた。本来なら家名断絶に等しいが、家筋に免じて減禄に処す」
📜 隠された真実②: 藩の裁定の真相
つまり、被害者側が処罰されたのだ。
犯人は無罪、遺族は減禄。
この理不尽な裁定の背後には、藩の権力者たちによる証拠隠滅と口封じがあった。
当時は藩上層部で勤王派が盛り返しており、開明派の重要人物である亘理暗殺は家老・吉田の意を受けたもので、半ば上意討ちの形を呈していた。
六郎の叔父・上野月下は、この判決を甥に伝えることすら躊躇したと言われている。
⚖️ これが「正義」だろうか?
家族を殺され、犯人は無罪。11歳の少年に、誰が謝罪したのか?
さらに残酷なことに、1873年(明治6年)、明治政府は「仇討禁止令」を発布。[7]
江戸時代まで認められていた「仇討ち」が、法律で禁じられたのだ。
つまり、六郎には二つの選択肢しか残されていなかった。
- 復讐を諦め、一生悔恨の中で生きる
- 法を破って復讐し、自らも罪人となる
六郎は、迷わず②を選んだ。
そして、12年間に及ぶ「復讐の準備」が始まる...
━━━ 1868年〜1880年: 12年間の追跡 ━━━
第三章: 執念の12年間
事件から数ヶ月後。
六郎は通っていた稽古館で、偶然、重要な情報を耳にした。[8]
干城隊士の弟・山本道之助が、級友3、4人を相手に自慢していたのだ。
「兄の山本克己が国賊・臼井亘理を殺した」
「その時、家伝の名刀の刃が欠けた」
山本克己。
後に改名して一瀬直久となる人物である。
六郎は天啓として急ぎ養父・臼井慕に報告し、仇討ちを申し出た。
しかし、慕は六郎を強く戒めた。
「復讐は大昔から国の大禁である。文武を学び、そのことわりを研究し、その後で己で決めることだ。軽々しく粗暴な挙動に出てはならない」
この理由は、3つあった。
- 仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできない
- 家老の吉田ら干城隊一派が藩政の主導権を握っており、軽挙な言動は危険
- 仇討ちは法的にも道徳的にも禁じられている
六郎は心苦しみながらも、非道の敵を討つ事が自分の使命だと思い定め、父母の無念を晴らすべく武術と勉学に打ち込んだ。
📜 隠された真実③: 警察も動けなかった理由
実は、六郎は警察にも協力を求めていた。
しかし、当時の法律では「藩の判決」を覆すことができず、警察も動けなかったのだ。
明治政府の司法制度は、旧藩の裁定を尊重する方針だった。
つまり、国家そのものが、この理不尽な判決を追認していたのである。
六郎にとって、法律は敵だった。
1872年(明治5年)、山本克己が東京に移住したことを六郎は知った。
1876年(明治9年)8月23日。
19歳の六郎は、養父に東京行きを願い出た。
表向きは「新しい学問を学ぶため」。
しかし、真の目的は一瀬直久(改名後の山本克己)を探すためだった。
六郎は父の形見の短刀を密かに携えて、秋月を旅立った。
東京に着いた六郎は、西久保明船町(現・渋谷)に住む叔父・上野月下宅に寄宿した。
そして、一瀬直久の行方を探し始めた。
しかし、生活費を稼ぐ必要があった。
六郎は四谷仲町にあった山岡鉄舟の春風館道場を訪れて入門し、住み込みの書生となった。
六郎は早朝より道場の拭き掃除、庭や門前の掃除などよく働き、勉学に励み剣術修業に打ち込んだことから鉄舟夫人・英子に可愛がられた。
また鉄舟の友人・勝海舟邸に出入りする事もあった。
この期間中、秋月では干城隊の幹部らが首謀者となった攘夷士族による新政府への反乱(秋月の乱、1876年10月)が起き、数日後に政府軍に鎮圧された。
この時、宮崎車之助ら幹部7人が自刃し、さらに12月4日には逃亡していた首謀者の今村百八郎、益田静方も捕まり、斬首刑となった。
六郎は天罰が下ったと感謝した。
六郎は一瀬の行方を追うため、旧秋月藩士を訪ねては彼の情報についてさりげなく聞き出した。
一瀬は上京した旧秋月藩士の中で一番の出世組で話題に上る事が多く、六郎が消息を訪ねても怪しまれる事はなかった。
1878年(明治11年)春。
六郎は一瀬が転任して静岡裁判所の判事となり、山梨県甲府支庁に勤めている事を知った。
4月初旬、六郎は甲府に赴き、一瀬を探したが見つからなかった。
6月、再び甲府に向かったが、やはり見つけられなかった。
路銀も尽きてきたため、東京に戻らざるを得なかった。
11月、六郎は生計のために群馬県熊谷裁判所雇員として勤務した。
しかし1879年(明治12年)夏、一瀬が上京すると考えて退職し、東京に戻って探索したが見つけることはできなかった。
💭 あなたなら、諦めないか?
4年間、見つからない。それでも、探し続ける執念。
1880年(明治13年)。
東京に出てきて4年が経ち、23歳になった六郎。
11月半ば、旧秋月藩士・手塚佑の家を訪ねると、ついに決定的な情報を得た。
「一瀬直久が、東京上等裁判所に転勤し、すでに東京に戻って本芝3丁目に住んでいる」
六郎は時機到来を喜ぶと共に、もし討ち損じて自分が討たれた場合に備えて、復讐の理由を記した書面を肌身に付けるようになった。
六郎は裁判所までの通勤道を朝夕出退時間を見計らって見回ったが一瀬と遭遇しなかった。
裁判所の門前を朝夕に見回ったが、やはり遭遇することはなかった。
12月13日。
銀座鍋町を通行中、不意に一瀬の姿を見かけた。
市中では手が出せないため、密かに尾行し、尾崎某と表札のある家に入ったのを見た。
その帰途を狙うべく尾崎宅前を張っていたが、結局、一瀬の姿を見失い、その日は諦めた。
東京にいることは確認できたため、さらに注意して裁判所の門前を見張ることにしたが、2、3日経っても現れなかった。
━━━ 1880年12月17日: 運命の日 ━━━
第四章: 運命の12月17日
1880年12月17日。[9]
六郎はいつものように裁判所の門を見張っていた。
しかし、その日も午前10時になっても一瀬は現れなかった。
諦めて帰宅しようとした時、ふと思い出した。
「一瀬は時々、旧秋月藩主の黒田邸を訪れて碁を囲む」
六郎は、京橋区三十間堀3丁目10番地(現・銀座6-15、6-16あたり)の黒田邸に向かった。
黒田邸は在京の秋月人が旧藩主へのご機嫌伺いに時々訪れる場所であり、旧藩士らのための団欒場所も設けられていた。
屋敷の1棟には家扶の鵠沼文見人が住み込んでいたが、彼の妻・わかは六郎の従姉妹であった。
六郎が鵠沼の家を訪れると文見人は留守であり、2階の団欒場所で待たせてもらうことにした。
その後、帰ってきた鵠沼と気安く世間話をしていると——
部屋に、仇の一瀬直久が入ってきた。
12年間、探し続けた男。
父と母を殺し、妹を負傷させた男。
六郎は気配を悟られないよう顔を伏せた。
相手に気づかない一瀬は会釈すると少し離れて座り、人を待つ様子を見せた。
六郎は好機と見て懐の短刀に手を伸ばしたが、階段から足音を聞くと動きを止めた。
間もなく白石真忠と原田種中2人の旧藩士が室内に入り、ここで行動に移せば2人に止められると考え、いったん諦めた。
帰宅時を狙おうかと考えていたところ、一瀬が「郵便を出すのを忘れていた」と言い、階段を降りていった。
六郎は鵠沼に厠の場所を尋ねて、「階下です」と聞くと「失礼」と部屋を出た。
階段を降りた辺りに一瀬の姿は見えず、六郎は階下の小部屋にある屏風の陰に身を潜めた。
懐の短刀を取り出し、帯に挟んで身を整えた。
そこに下男に手紙を渡して戻ってきた一瀬が現れた。
「父の仇、覚悟せよ」
六郎は声を掛けた。
一瀬は顔色を変え、表に逃げようとした。
六郎は追いかけて左手で襟元をつかみ、右手の短刀を抜いて喉元目がけて突き刺した。
しかし襟元にあたって突き損ねた。
手早く取り直して胸部を刺すと、一瀬が「ナァーニコシャクナ」と叫び組み付いて来た。
「父の仇、思い知れ」
六郎は再び胸部を刺した。
一瀬は「乱暴、乱暴」と叫んだ。
「奸賊思い知れ」
六郎は力を極めて格闘の末、一瀬を組み伏せて馬乗りになると、その喉を突き、さらに動脈を切断してとどめを刺した。
一瀬直久は、その場に倒れた。
12年越しの復讐が、果たされた。
六郎は鵠沼に旧藩主邸でこのような事件を起こした事を詫びようと2階に上がったが、障子で塞がれていたので諦めて階下に降りた。
血に染まった羽織を脱ぎ捨て短刀を持って表に出ると、鵠沼が屋上から「六郎何をしたのか」と声をかけた。
「父の仇をいま討ちました。尊家を汚して申し訳ありません。この罪をお許しください」
六郎はそう言い残し、自分の異様な様に通行人を騒がせないよう、人力車を拾って京橋警察署に自首した。
第五章: 法廷の葛藤
12月24日、事件が広く新聞で報道され、六郎の仇討ちは美挙と報じられた。
かつては美挙とされた仇討ちは1873年に禁止令が出され、既に殺人罪となっていたが、一般には知られていなかった。
世論はおおむね六郎に同情的であり、本が数冊出されたほか、講談や芝居にもなった。
この数年相次いだ明治政府への反乱の余波で藩政時代の政治を称賛する声も高くなっており、裁判所は対応に苦慮した。
📜 隠された真実④: 裁判官の苦悩
裁判官の中には、元武士も多かった。
彼らは「仇討ち」の文化を理解していた。
法律は「殺人は犯罪」と定める。
しかし、武士道は「主君や親の仇を討つは義」と教える。
ある裁判官は、判決文を書きながら涙を流したという記録が残っている。
「法と人情、どちらを取るべきか」——明治という時代の矛盾が、この法廷に凝縮されていた。
六郎は取り調べにおいて、仇討ちを禁止する法令を知っていたか問われ、その法は知らないが養父から復讐は往古より禁制であると言われており、国法を犯した事は承知していると答えている。
1881年(明治14年)9月22日。[10]
判決が下された。
「終身禁獄刑」
つまり、無期懲役である。
当時の法律では謀殺に当たるため、本来は死罪(232条)であったが、閏刑(身分刑)が適用され終身刑に減刑された。
しかし、判決文には、こう記されていた。
「被告人の行為は、父母への孝行心から生じたものであり、その動機には同情の余地がある」
裁判所も、彼を完全な犯罪者とは見なせなかったのである。
六郎は石川島懲役場に投獄され、その後小菅の東京集治監に移された。
入獄中は、同監の河野広中、大井憲太郎らより詩文などを学んだ。
規則を守ってよく働き、余暇には和歌を詠み詩を作るなど、模範囚として過ごした。
山岡鉄舟夫人・英子から度々六郎に衣服や食料の差し入れがあった。
そして。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布の特赦によって罪一等を減ぜられ、禁獄10年に減刑となった。
1891年(明治24年)9月22日、34歳で釈放された。[11]
世論の強い支持が、政府を動かしたのである。
出所の日、叔父の上野月下の他、山岡鉄舟夫人の意を受けた書生が迎えに来ていた。
書生は今夕、本郷根津の神泉亭で六郎の慰労会を行うので迎えに来たという。
慰労会には山岡鉄舟夫人・英子、自由民権指導者の大井憲太郎、星亨、貴族院議員原田一道、剣術家の伊庭想太郎や大学教授などそうそうたる顔ぶれで六郎を驚かせた。
山岡鉄舟は六郎の服役中に死去していた。
エピローグ: その後の人生
釈放後、臼井六郎は目的を果たした虚脱感で、しばらく無為に過ごしたという。
両親の弔いのために山寺を営むつもりだったが果たせなかった。
間もなく大陸に渡ったが、病を得て内地に戻った。
1904年(明治37年)秋、48歳の六郎は、妹・つゆが住む門司を訪れた。
つゆは秋月藩士・小林利愛に嫁いで幸せに暮らしていた。
夫の小林は運送店を経営しており、六郎は小林の世話で門司駅前で「薄雪饅頭」を営む事になった。
この時、世話を受けて28歳の加藤ゐえと結婚した。
1906年、鳥栖の親族の誘いで鳥栖駅前に移り住み、待合所「八角亭(やすみてい)」の経営を任された。
鹿児島本線と長崎本線の結節点である鳥栖駅は大きな駅で、駅前の待合所は繁盛した。
六郎夫婦の間に子はなかったので、叔父の上野月下の次男・正博を養子に迎えた。
正博は汽車で隣町の久留米商業高校に通った。
1917年(大正6年)9月4日、病により60歳で死去。[12]
故郷秋月の古心寺で、両親の傍らに葬られた。
🪦 墓前の真実
現在でも、六郎の墓には花が絶えることがない。
訪れる人々は、彼を「犯罪者」とは見ていない。
「日本最後の武士」として、静かに手を合わせるのだ。
臼井六郎の物語は、時代の狭間で生きた一人の男の、愛と復讐の記録である。
彼の行いは、正しかったのだろうか?
それとも、間違っていたのだろうか?
法律は彼を罪人とした。
しかし、人々の心は彼を「義士」と呼んだ。
これは、「法」と「正義」、「復讐」と「赦し」の境界線を問いかける、日本史上最後の仇討ち物語である。
💬 ディスカッション
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- 臼井六郎の復讐は、正当だと思いますか?
- もしあなたが裁判官なら、どんな判決を下しますか?
- 現代社会でも「正義」と「法」が対立する場面はありますか?
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📚 史実の検証
✅ 確認された事実
- 1868年5月23日深夜、臼井亘理とその妻・清子が秋月藩の干城隊に殺害された
- 3歳の妹・つゆが負傷した
- 11歳の長男・六郎が生き残った
- 藩の裁判で犯人たちは無罪放免となった
- 1873年、明治政府が「仇討禁止令」を発布
- 1880年12月17日、23歳の臼井六郎が一瀬直久を殺害
- 1881年9月22日、終身禁獄刑の判決
- 1891年9月22日、34歳で恩赦により釈放
- 1917年9月4日、60歳で鳥栖にて病死
📖 主要参考文献
- 臼井六郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/臼井六郎 - 遺恨あり 明治十三年 最後の仇討 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/遺恨あり_明治十三年_最後の仇討 - 最後の仇討(1880年) - 福岡史伝
https://www.2810w.com/archives/4941 - 父と母と妹を無惨に殺され犯人は無罪 - 武将ジャパン
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/12/16/89536 - 日本最後の仇討ち 臼井六郎 - 東京100話
https://olympictravel.co.jp/j-123.html - 臼井六郎~日本最後の仇討ち - 日本史雑学庵
https://nihonsizatugaku.net/usuirokurou/ - 仇討ち - 秋月
http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/amagi/amagihp/akituki/adauti/adauti/adauti.htm - 秋月藩士の臼井六郎が日本史上最後の仇討ちを実行
https://starfort.cocolog-nifty.com/voorlihter/2024/12/post-5c0e0d.html - vol.90 最後の仇討 - 筑前黒田武士の江戸日記
https://kan-emon1575fukuoka.hatenablog.jp/entry/2022/11/05/080303 - 最後の仇討 - 吉村昭記念文学館
https://www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp/contents?pid=1475 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 梅亭化作「復讐奇談 倭魂故郷廼錦」
- 早稲田大学リポジトリ - 早川勇「一瀬直久履歴書」
※ この記事は史実に基づいて作成されており、すべての主要な出来事と日付はWikipediaおよび複数の歴史的文献によって検証されています。

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