最新記事

乱華の檻:御所を狂わせた「禁じられた蝶」の最期

本コンテンツは歴史的事実(猪隈事件)を基にしたフィクション(ファクション)作品です。演出上の脚色が含まれており、実在の人物の会話や心理描写は想像の域を出ません。性的なニュアンスを含みますが、露骨な表現を避けた文学的な描写としています。


【史実 ARCHIVE】

時代: 1609年
人物: 猪隈教利 (Inokuma Norihide)、後陽成天皇 (Emperor Go-Yozei)、徳川家康 (Tokugawa Ieyasu)、広橋局 (Hirohashi no Tsubone)

1609年(慶長14年)、公家である猪隈教利(いのくまのりとし)が多数の女官と密通していたことが発覚した事件。後陽成天皇の激怒を買い、徳川家康による厳しい処断が行われた。これにより猪隈教利と関係者は処刑され、朝廷統制のための「公家衆法度」、後の「禁中並公家諸法度」制定の契機となった。

夜の御所は、死んだように静かだと言われる。だが慶長十四年、その闇の奥では、絹が擦れる音と、押し殺した吐息だけが響いていた。「光源氏」の再来と謳われた一人の男。彼が放った甘い毒は、退屈という名の牢獄に囚われた女たちを狂わせ、やがて朝廷そのものを焼き尽くす業火となった。
「教利様、これ以上は……もし誰かに見られれば」 「見られる? 誰にだ。帝か? それとも石の地蔵のような武士どもか」 闇に溶け込む黒衣を脱ぎ捨てれば、そこには鮮やかな装束があった。猪隈教利は、震える女官・広橋局の指先に自らの唇を寄せる。伽羅(きゃら)の香りが、湿った夜気の中で濃厚に立ち込める。 「そなたの肌は、恐怖で震えている時が一番美しい」 女官の瞳が揺れる。それは拒絶ではなく、堕ちていくことへの目眩だった。御所の厳格な掟。それを破る背徳感こそが、彼らにとって極上の美酒となる。襖(ふすま)一枚隔てた廊下を、宿直(とのい)の足音が通り過ぎるたび、二人の鼓動は重なり合い、加速していく。
享楽の宴は、あまりにも脆く崩れ去った。 「……これは、何だ」 後陽成天皇の手の中で、密書が握りつぶされる。女たちの化粧の匂い、乱れた寝所、そして数えきれぬほどの不義の証拠。それは単なる浮気ではない。神聖なる禁裏(きんり)を、欲望の掃き溜めに変えた冒涜であった。 「斬れ。関わった者すべて、一人残らずだ!」 帝の絶叫が御簾(みす)を揺らす。しかし、その怒りの裏には、自らの庭を荒らされた屈辱と、権威の失墜への恐怖が張り付いていた。愛欲の代償は、血の雨となって降り注ごうとしていた。
駿府城の奥深く、徳川家康は報告書を静かに閉じた。その老いた瞳には、怒りよりも冷徹な計算が光っていた。 「公家の乱れ、ここに極まれり、か」 家康にとって、この醜聞は絶好の好機であった。教利の性愛を利用し、天皇家そのものの首輪を締める。 「血を流すのは猪隈だけでよい。だが、この鎖は永遠に朝廷を縛るだろう」 茶をすする音だけが、広間に響く。それは、愛欲に溺れた者たちへの弔いの音ではなく、新たな支配の始まりを告げる冷たい響きであった。
京都、常禅寺。処刑の日は、皮肉なほどに晴れ渡っていた。 「世は夢か、夢こそ世なれ……」 教利は最期に空を見上げた。女たちの柔らかな肌の感触も、甘い香の匂いも、今はもうない。あるのは、首筋に触れる冷たい刃の感触だけ。 刀が振り下ろされた瞬間、群衆の悲鳴は歓声にかき消された。彼の流した血は、やがて乾き、歴史の彼方へと消えていく。しかし、彼が招いた「禁中並公家諸法度」という檻は、その後二百五十年もの間、公家たちを飼い殺しにし続けたのである。

愛欲に溺れた代償は、自由の剥奪でした。猪隈事件。それは色鮮やかな平安の夢が、武家の冷徹な法によって完全に終わらされた、歴史の転換点だったのかもしれません。

コメント