狂い咲き、犬哭の夜 | 憐れみの檻
【閲覧注意】
本作は史実を下敷きにした歴史フィクションです。物語の展開上、人物の密やかな関係性や官能的な心理描写、ならびに過酷な運命を想起させる表現が含まれます。18歳未満の方、刺激의 強い表現を好まれない方は、閲覧をお控えください。
【史実 ARCHIVE】
年号: 1687年(貞享4年)頃から本格化
人物: 徳川綱吉(Tokugawa Tsunayoshi)、柳沢吉保(Yanagisawa Yoshiyasu)、隆光(Ryuko)
元禄時代、徳川五代将軍綱吉によって制定された「生類憐れみの令」は、捨て子や老人への保護も含む広範な道徳律であったが、特に犬への愛護が極端に執行されたことで知られる。民衆は犬を「お犬様」と呼び、誤って傷つけただけで厳罰に処される恐怖に怯えた。この過剰な慈愛の裏で、人々の愛憎や欲望は密やかに、しかし激しく渦巻いていた。
元禄の世、江戸は爛熟の極みにあった。しかし、その華やかさの底には、将軍綱吉による「生類憐れみの令」という見えざる鎖が横たわっていた。犬を殺めれば人すらも死罪となる狂気の法。人々は息を潜め、お犬様が通れば泥に額を擦り付ける。そんな歪んだ秩序の檻の中で、決して結ばれてはならぬ二人の男女がいた。幕府の犬目付(いぬめつけ)である男と、没落した商家の美しき未亡人。彼らの逢瀬は、死と背中合わせの蜜の味であった。
畳の井草が肌に食い込む感覚と、互いの鼓動が重なり合う音だけが、世界の全てであった。志乃の肌は、行灯の光を吸い込んで妖しく輝いている。久蔵の手が彼女の背筋を辿るたび、彼女は小さな、しかし鋭い呼気を漏らした。それは快楽の声であると同時に、怯えの声でもあった。
「……怖いのです、久蔵さま」
事切れた後の静寂の中、志乃が呟いた。彼女の瞳は、快楽の余韻で潤みながらも、見えざる処刑台を見つめている。
「もし、私たちがこうしていることが露見すれば……」
「誰も知りやしない。この部屋の障子一枚隔てた外は、狂人の世だ。だが、ここだけが俺たちの真実だ」
久蔵はそう言い聞かせるように、彼女の乱れた髪を指で梳いた。しかし、運命は残酷な音を立てて忍び寄る。その時、船宿の裏手で「キャン!」という鋭い悲鳴が上がったのだ。二人の体が一瞬にして硬直する。それは、紛れもなく犬の鳴き声であった。
「……今の音は」
志乃が青ざめた顔で久蔵の胸にしがみつく。久蔵は身を起こし、刀を掴んだ。犬目付としての直感が警鐘を鳴らす。誰かが犬を傷つけたのか、それとも犬同士の喧嘩か。いずれにせよ、この場所で「お犬様」に関する騒ぎが起きれば、役人が踏み込んでくる。それは、この密会の破滅を意味していた。
襖の隙間から、宿の主人の慌てふためく声と、高圧的な同心たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
「ここで犬の死骸が見つかったぞ! 下手人はどこだ!」
その言葉は、二人の首にかかる絞首刑の縄の音がした。官能の熱は瞬く間に冷え、代わりに死の冷気が足元から這い上がってくる。
逃げ場はなかった。船宿は既に御用提灯を持った捕り方たちに取り囲まれている。皮肉なことに、久蔵自身が属する組織の者たちだ。犬の死骸——それは何者かが意図的に置いた罠か、あるいは不運な事故か。真実など、この狂った法の下では何の意味も持たない。「犬が死んだ場所に居合わせた」という事実だけで、彼らは極刑を免れないのだ。
「……お逃げください、久蔵さま」
志乃が震える手で久蔵の袖を掴んだ。涙がその頬を伝い、床に落ちる。
「あなた様は、役人です。私ごときと関わりがあったなどと知られれば……」
「馬鹿を言うな」
久蔵は志乃の痩せた肩を抱き寄せた。最期の時が迫っていることを悟った二人の間に、先ほどまでとは異なる、切なくも激しい情念が再燃する。死を前にした人間が放つ、最後の生命の輝き。それは毒々しいほどに美しかった。
「一緒に堕ちよう、志乃」
久蔵の言葉に、志乃は泣き笑いのような表情を浮かべ、彼に口づけをした。その口づけは、血の味がした。唇を噛み切りそうなほどの強さで求め合う二人。踏み込まれるまでの僅かな時間、彼らは獣のように貪り合った。愛を確かめるためではない。生きた証を、互いの肉体に刻み込むために。
戸が蹴破られる音が響く。怒号と共に土足の男たちが雪崩れ込んでくる。しかし、二人は離れなかった。まるで一本の樹木が絡み合うように、固く抱き合ったまま、無慈悲な運命を見据えていた。
白洲に引き出された二人は、もはや言葉を交わすことも許されなかった。罪状は「生類憐れみの令違反」並びに「不義密通」。犬殺しの疑いは晴れることなく、むしろ久蔵が犬目付でありながら監督不行き届きであったとして、罪はより重いものとされた。
判決は、市中引き回しの上、獄門。
処刑の日、江戸の空は突き抜けるように青かった。それが彼らにとって最後の皮肉のように思えた。沿道には、野次馬たちが群がっている。その中には、首輪をつけた立派な犬たちが、人間様を見下ろすように悠然と歩いていた。
久蔵と志乃は、縛られたまま馬に乗せられ、互いの姿を遠くに見ることしかできない。しかし、その視線が交錯した瞬間、二人の間には確かにあの夜の熱が蘇っていた。言葉はなくとも、眼差しだけで肌を撫で、心を貫く。
(ああ、なんと滑稽で、美しい地獄か)
久蔵は心の中で呟いた。犬の命が人の命より重い世。そんな狂気の中でこそ、彼らの禁断の恋は真実の輝きを放ったのだ。
刑場にて、白刃が閃くその刹那。志乃の唇が微かに動いた。「あなた」と呼んだのか、それとも念仏を唱えたのか。それは誰にも聞こえなかった。
首が落ち、血飛沫が砂利を染める。その赤は、彼らが密室で重ねた唇の色と同じであった。遠くで一匹の犬が吠えた。その声は、憐れみなど欠片もないこの世への、嘲笑のように響き渡った。
元禄の徒花(あだばな)として散った二人の名は、公式の記録には残されていない。ただ、犬を憐れむという美名の下に行われた狂気だけが歴史に刻まれた。後世、この法が廃止された時、人々は歓喜したという。だが、その歓喜の陰で、理不尽に摘み取られた恋の物語があったことを知る者はいない。夜風に揺れる柳だけが、あの夜の湿った吐息と、血の匂いを覚えているのかもしれない。
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